裸でも生きる

今年1発目の涙本。読み始めて40ページ、朝の通勤ラッシュの電車で涙した。多くの人に読んで欲しいと思うし、特に彼女と同じ20代の若者は読むべきだと思う本。

著者の山口絵理子さんは、小学校のいじめられっ子、中学校での不良、高校での柔道全国7位、体育大学を薦められる程の偏差値40からの慶應大学入学、そして慶應で開発学と出会い、国際援助の道へ。国際援助の実態を知るうちに、まさしく自らの身体で、途上国発展の道を切り開こうとする1981年生まれの女性。バングラデシュの腐敗の現状や裏切りに七転び八起きしながらも、一歩一歩進んでいく彼女の物語に引き込まれる。

「ボス、どうしても一ドル、うーん、二ドルくらい、いつも計算が合わないんですが・・・」
「あぁ、オッケー、オッケーよ。そっちの方合わせておいて」
「あ、はい」
そのときは、「あ、そんなものなのかぁ・・・」って通り過ぎた一言だった。
でも職場からの帰り道のバスの中、そして帰宅してからのベッドの上、すっと気になって考えていた。
(二ドルでも、それってものすごく大きな金額なんだよなぁ、途上国の人たちにとっては・・・)
==中略
自分の目でいったいどんな問題が起きているのか、援助は本当に役立っているのか、貧しいという現実をこの目で見なければ何も始まらない。
果たして自分が行っている仕事が正しいのかどうかも判断できない自分に、本当に嫌気がさしていた。

ビジネスはビジネス。利益が出なけりゃやっていけない。社会貢献も何もない・・・ということ。「利益第一」になるという意味ではなくて、NGOではなく、「かわいそうだから買ってあげる」商品でもなく、商品として勝負すると決めたのだから、価格、品質、デザインで勝たなければ、生き残れないという当たり前の現実だった。
ビジネスの世界で戦うと決めたのに、「社会的な意義」をアピールすることは、そういった要素に頼ってしまっている証拠だ。「社会的な意義」を商談に持ち込んで、それでモノを売ろうとする自分の根性に、甚だ嫌悪を感じた。モノの意味や、心のコアにあるたくさんの熱い想いを、社会に伝える場や方法はたくさんあるわけで、卸先や取引先へ伝えるできものは、まったく別ものだ。

82年生まれの私と一つしか違わない彼女が、とてもとても大きく思える。彼女は、行動第一主義でいて、理想主義であり、自己否定をバネにする頑張り屋さんでもある。そして何よりも素直だ。この本を読んでいると、自分の小ささがわかる。本当に自分は小さい。

ただ、それと同時に、逆の気持ち、自分の可能性の大きさも感じることができる。彼女の平易な言葉と、誰もが持ちうる純粋な気持ちに心が跳ね上がる。彼女の言葉で言うと「君はなぜそんなに幸せな環境にいるのに、やりたいことをやらないんだ?」だ。


自分が幸せであること、自分が幸せな環境にいることを人はすぐ忘れてしまう。目の前の出来事に日々日々いっぱいいっぱいだったり、流されていったりするこの日常に、「幸せな環境」という視点をどう意識していくか。忘れがちになってしまう「幸せな環境」、ついつい上ばかりを見て自分の環境を否定してしまう愚行を、どう意識していくか。それは、本当に課題だと思う。

たとえ、自分自身が山口さんのように何かできなくても「幸せな環境にいること忘れず、感謝する」ことで、本当に自分がやりたいことをやれるのではないか。幸せな環境にいることを意識し続けることは、なかなか難しいことだけれども、時折こうして(このようにブログを書いたりして)、自分に問い続けることで少しずつ成長していきたいし、そうしようと思う。


最後にもう一度彼女の言葉を引用する。

君はなぜそんなに幸せな環境にいるのに、やりたいことをやらないんだ?