ですます文

「です、ます」と「だ、である」の混用をコードスイッチ話法というらしいです。
わたしの文章はいつもコードスイッチかもしれません。文章を書くとき、文末の終わり方のことは気になりますが、結局いつも混用しているように思います。それはわたしの文章力がないからですし、文末に気をつけて文章を書くよりも、思ったことを思ったままに文章にしたほうが相手に伝わるのではないか?と心のどこかで考えているからです。

では、どうしてそんな話法が受けるのだろう。まず、こうした「私的」話法というのは、それだけで説得力があるということがある。ニュアンスに富み、聞いていて面白い。「何ともぞんざいで、態度が大きいなぁ」という違和感を持ちながらも、慣れてくるとそれも気にならなくなる。
それだけではない。こうした「私的な話法」に慣れてくると、段々に「〜です、ます」調の丁寧な話法が、格好をつけていて冷たい」話し方に聞こえてきてしまうのだ。 その一方で、コードスイッチを混ぜた「タメクチ」的な話し方の方が「ストレートで、ホンネが入っていて、正直なので」共感できるという様に思い込まれていく。 小泉首相の「自分の言葉」というのも同じである。

自分を表現したいという想いがコードスイッチ話法を生み出したのでしょうか。それとも、近年の国語教育がコードスイッチを生み出したのでしょうか。
その場の空気に流されないために、自分の言葉で語ることができるコードスイッチ話法が広まったのでしょうか。空気打開の手段だったのでしょうか。