世界のオザワの「おしえたい」

昨日読んだ小澤さんの本がとても印象に残っていて、今日も会社帰りに小澤さんの本をつい買ってしまいました。これは65歳同士であり、かつ、世界のオザワさんと世界のオオエさんの対談。


26歳の小澤さんと65歳の小澤さん、彼の本質は40年たっても変わらないと思う。26歳の時に書いた文章を読んでわたしは、小澤さんは「おしえてください」と自分自身を下げられるすごい人だと感じた。(世界のオザワの「おしえてください」 - maki_laxねこにっき
大江さん曰く、65歳になった今でも同じであるし、加えて、いい先生にもなったという。

大江>僕は、小澤さんが、生徒として本当に優秀な人だと思うんですね。まず斎藤秀雄先生という先生がいる、それからシャルル・ミンシュがいる、バーンスタインカラヤンがいるというふうに、すばらしい先生を見つけられる。
それから後、今度はあなたがすごくいい先生になられると思うんですよ。生徒たちに教えていられるシーンをテレビで見ると、本当に、あ、いい先生だと思う。いい先生に会っていい生徒になる人格だし、先生に習ったことを生徒にちゃんと教えてゆくいい先生になる人格でもあるとつくづく思います。

いい生徒であり、かつ、いい先生である。これは人間関係でかなり大事なこと。小澤さんも昔はNHK交響楽団と「小澤事件」が起きたくらいだし、誰とでもいい人間関係を築けたわけじゃないと思う。
人間関係って難しくて人から教わることもあれば、人に教えることもある。勘違いしてる人も多いけど、それは年齢とか仕事上の役職とかは関係なく、下から学ぶことも大いにあっていいことなんだと思う。自分が持ってない知識が増えることは喜ぶことであって、やっかむことなんかじゃない。

音楽が人間の本能を呼び覚ます

小澤>あのね、僕、こういうふうに思うんですよね。たとえばここ(長野県・奥志賀高原)にスキー学校がありますけど、僕は、スキーのレッスンを受けたくてしょうがないわけ。普通の人は、スキーに来ると、スキーの先生なんかにつかないで、何しろ滑ってみたいんですね。僕は、なにせ先生と一緒に滑って、何かその日にちょっと新しいことを教わりたい。意地汚いくらいそうらしいですよ。
ところが、それは何でかと考えてみたら、音楽家だから。音楽というのは、子供のときから教わっているわけ。

小澤>あ、それはもう、もちろんそうですね。本能的なことかもしれないんだけど、自分が覚えたことを次に遺してもらいたい、自分だけで終わらないで遺してもらいたいというのはあるみたいですね。音楽の場合は、教えたいという本能。要するに、自分が覚えたことでいいのがあったら、それを何とか口移しでもいいから次に与えて、使ってもらいたいという、何ていうのかなあ・・・。ヘンな話だけど、僕ね、スキーにしても、テニスにしてもレッスンばっかり受けるんですよ。
大江>いまも(笑)
小澤>スキー場へ行っても、まず、高いけど、お金払って先生に就くのが好きなの。普通の人は、先生に就くのは嫌いで、うちの子たちでも嫌でしょうがなくて、勝手に滑って遊びたい。テニスも、すぐみんな試合をしたがる。僕は、テニスの先生からまずレッスンを受けるほうがすきなんです。なんかやっぱり音楽家には、そういう教わるとか、教えるとかっていう志向があるんじゃないですか。

・・・音楽家だから、という後天性で片付けてよいものなのだろうか。教えてもらうのが好きなの、という言葉で片付けていいのだろうか。

人間って本能的に音楽好きだと思うんだよね。音ってもちろん文字よりも早く生まれているし、動物だって文字は使えなくても音は自分で出すことができる。
楽家だから教わりたい欲求が生まれる、じゃなくて、そもそも人間は教わりたい欲求を持っていて、それをプライドやら怠惰心とか何やらが邪魔したりする。
そう考えると、音楽が人間の教わりたい欲求を呼び覚ますんじゃないのかな。本能的に人間って教わりたいし、教えたいと思うんだよね。なぜって遺伝子がそうさせるから。人間という動物が人間としてこの地球に生きていくために知識やなんやらを残していきたいというのは本能でしょう。

音楽“家”だからじゃなくて音楽と本気で向き合った世界のオザワだからこそ、教わりたい欲求や、教えたい欲求が本能的に呼び覚まされたのではないか。