「立つ鳥跡を濁さず」のむずかしさ

http://kensuke-miyazaki.blog.drecom.jp/archive/146
少し前に上記のブログが注目のエントリーに上がっていたんだけど、わたしは少しだけ同情したい。

私は今後、ドリコムで学んだ様々なことを活かし、少しでも多くの人の役に立てるように生きていきたいと思います。

リンク先を読めば分かるけれど、確かにこのエントリーは何も生み出さないただの愚痴でしかない。エントリー自体の結論としては、上記の引用文が書かれているが、本当に言いたかったことは、その前の項の愚痴であることは誰の目にも明らか。学んだ様々なことを活かすのであれば、愚痴なんていらないはず。

例えば、部活を途中でやめてしまった人、学校を途中で辞めてしまった人。辞める理由は何であれ、自分が所属していた組織に対して否定発言をする人は基本的に信用されなくないか。


・・・「それ自分と考え方があわなかっただけじゃん。」以上、終了なんですけど。
愚痴はその組織にいるからこそ言える、いや、愚痴はその組織にいるからこそ言って良い権限じゃないのだろうか。

立つ鳥になること

ただ、その気持ちの抑えきれなさも分かる。自分はこれだけやったのに、、、自分は社内でこれだけ立ち回ったのに、、、。自分に至らなさがあった場合はともかく、自分が限界まで頑張った場合、その無念さはぶつけるところがない。

その無念さを自分の中でどう消化できるのかが、本当の意味で「立つ鳥」になる道なのかもしれないと思う。

立つ鳥になりたい

わたしは今までに「やめる」という大きな決断をしたことがない。小さな物事ではあったのかもしれないけれど、基本的には自然消滅や、部活、学校、委員会など一定の期間が経てば終わるものである。大学での体育会は当初の同期が卒業時には半分になった。「大学にもなって体育会なの?」「サークルとか入って遊んで・・・」そんな雑音が周りにはあった。それでも引退の時に言ったとおり、「部活を辞めようとおもったことがない」んだよね。それは別に能天気でも鈍感でも何とでも言えばいいと思う。


やめるという決断をしたことがない。やめようと思ったことがない。それは逆説的に言えば、「だから立つ鳥になれないんじゃないか?」だ。
何でも途中でやめてしまって中途半端な人よりは良いのかもしれない。そんな人は立つ鳥になる資格もない。でも逆に「やめたことがないコンプレックス」を自分自身に感じることもある。真剣に考えた上で何かをやめたという経験がないのだ。

  • やめたことがあるということがいつか大きな財産になる

立つためにいつかその決断をしなければならないと思う。近いのか遠いのかは全然わからない。いろいろ考えたり、人の話を聞くと、早いほうがいいのかもしれないと思ったりもする。
でも、優柔不断で構わない。大切なことだ。悩んだぶんだけ、大きく立てるのかもしれない。

わたしの尊敬する人が会社をやめる

その人は「やめることがこの会社の大きなきっかけになればいい」そう言った。本当に尊敬している。
立つこと、そして、跡を濁さないこと。そのどちらもできる人になりたい。