選択 -going my way-
犯罪者を身内にもった苦悩はよく書けているが
久々に号泣しました
兄の犯罪により、世間で苦しむことを強いられる残された弟の話。
残された家族に罪は無いことは分かっている。でも・・・世間はそんな風には見ない。犯罪者の弟として不遇の境地を生きていくしかないのか。不遇を重ねるたびに兄への積もる憎しみ。
東野圭吾の社会派作品・直木賞候補作
参考;http://d.hatena.ne.jp/maki_lax/20060527/1148724766
http://d.hatena.ne.jp/maki_lax/20060528/1148793593
例えば身近に犯罪者の身内を持つ他人がいたとしてあなたは変な目で見ないだろうか。
多くの人は見るだろう。その人には関係ないことだって分かってる。分かっているか、分かっていないかは関係ないのだ。自分と同じか違うか集団に属するかどうかが大事なのだ。
例えば身内に犯罪者がいたとしてあなたは彼を許せるだろうか。身内に犯罪者がいる、ということで自分自身にも大きな不遇が重なってくるのだ。その苦しみを受け入れられるだろうか。最も理不尽な苦しみを。関係のない自分の生活すらも脅かされるのだ。
正直に話して生きていくことも、隠して生きていくこともできる。しかしそこにはどちらにしたって不遇は出てくる。異質なものとして排除しようとする人はいる。それはもう仕方がない。
身近に犯罪者がいると言うだけで、あなたも犯罪者のグループに入れられてしまうのだ。悲しいかな、それが現実だ。
あきらめるしかない。いや、あきらめとは違う。
自分自身で何が最善かを選ぶんだ。納得できるものを。自分自身さえ納得できれば良いじゃないか。
正解なんて無い。自分の選択を信じるしか道は無いのだ。
人生に正解なんて無い。人生では自分の選択を信じるしか道は無いのだ。